SLEのゆくさき

2018年1月末よりマイコプラズマ肺炎の疑いで入院後、ループス腎炎と診断。3月末SLEと診断されました。1年休学後復学したのち退学。2021年再受験し2024年2月現在大学3年生の24歳。不定期に更新しています。

SLE診断までの経緯@心理的側面

身体より心の方が厄介です。このブログのタイトルの由来にも近づきます。主に受験と病気に関してになります。また時系列で。

 

1月末まで

センター試験もまあまあで終わり第一志望で出願することに。出願時期が1/23〜1/31とかだったかな。それとぴったり重なるように体調崩しました。

正直この1・2年体調がおかしかった

でもある程度休んだら治るし気のせいにしながら生きて来ました。だからここでも「センター終わりで気が抜けている。」と思って押し通そうとした。

入院決まってからも「まあ長くて2週間やろう、全然2次まだ間に合う」とか楽観的。親の方が心配してました。この時の病棟の看護師さんほぼ全員綺麗か可愛かった。マスクしてるからや、と思ってたんですが取ってもみんな綺麗かった。天使でしたね。そんなこと考えるくらい元気でした

てか、採血の時あれ胸に手当たりますよね。腕のばさなあかんし対面に看護師さんいるし。名札に手が当たってかちゃかちゃ言うと気まずいです。

 

さて1週間で退院して40度の熱が出ましたが2週間想定してた自分は「退院させられたくらい健康か健康に近いんや」とか思ってました

 

そして2回目の入院。違う病棟でした。ここでも「また1週間くらいかなぁ。、そしたら受験まで1週間。定期テストと同じって考えよう」そんなもんでした。

それでいろんな科を回って2月中旬の夜、教材を持ってきてもらったのもあって勉強の計画を立てました。「何とかなる」そう思ってました寝て割とすぐ起きてお茶を飲もうとコップを持ったとき机に引っかかって1杯全てこぼしました。靴下とシーツが濡れアルミ製のコップが音を立てて廊下近くまで転がりました(誰も何も言わず寝てくれてました。他の患者さんごめん)

数秒して泣けてきました。その日の夕方親が持ってきてくれた靴下に履き替えたところでした。お茶をサーバーから汲んでくれた看護師さん、自分で注いだお茶。いろんなことが頭を駆け巡って、迷惑をかけてそれを台無しにした自分が情けなくなりました。実に2・3年ぶりに泣いたと思います。

 

そしてその日の夜から右腹の激痛と下がらない高熱にうなされます。思考は「苦しい、死にたくない」のみ。時計を見ながら「あと◯回息ができるか、それが不安になったら看護師さんを呼ぼう。」結局苦しさで初めて自発的にナースコールをしました。医師がいない土曜日、明日もいないし電話も繋がらない。カロナールを処方するのを渋る看護師さん。結局飲んでもほとんど効きませんでした。

ここら辺からはヒト状態です。受験も第一志望は心の中で諦めました。あと1週間と言うところでここまで苦しいのに合格なんて無理だと。

敬語で話していたのを「うん、いや」くらいしか話さなくなりました。そもそも途切れ途切れにしか話せませんでしたから。

 

ずっと寝ていたいのに看護学生が同じ部屋の他の患者さんと1日数回、十数分話し込みます。

夢に向けて着実に歩みを進める看護学生と(この実習が一番しんどくて大変かもしれませんが)、夢を諦め今後の展望も具体的に持てない自分。年齢は1・2才しか変わらないのです。カーテンを2枚隔てただけで人生にそれだけの差があった。今思えばあの時が一番辛かったかもしれません。

 

たまに解熱するタイミングが出てくると喪失感が襲ってきます。別に持っていたものではないのですが2年間追いかけた目標(受験合格)が挑戦もできず崩れてしまったのです。しかもその後の受験も受けられるかわからない。声を殺して毎日泣きました。看護師さん達に見られたり聞かれてミーティングで広められて気を遣われることをなぜか恐れていました。

検温のタイミングでどうでもいい話をしていられるのが唯一の心の逃げ場だったからかもしれません。

 

それから本当に色々あって(記事:身体的側面に記載)3/1に体がマシになり人間状態に。

医師から心と体のリハビリで少しずつ動いたら?と言われました。強制はされなかったのでそこはいい先生です。ただこの先生の前では泣いてしまいました。受験の話が長すぎる。塾講師をしてたとか自分の受験はこうだったとか、とにかく受験について正面から向き合いたくなかった。これはその後の話になりますが3年ほど通っている皮膚科の先生も「また来年(浪人)」みたいなことを軽く言います。医者ってやっぱり恵まれているんでしょうね。金も時間もかかるしプレッシャーも大きい。何より健康体で辛かったのに病気が治る見込みが見えない(この時は病名がついてなかった)中での浪人。絶対無理だと思いました。高卒で働こうと思ってました。それを言うと笑われました。こっちは本気なのに。

3/1・2は割と前向きで久しぶりに勉強を再開。といっても「a」を書くのが難しいくらい握力も落ちていました。

そして3/3、1月末の入院時と同じ血痰が出ました。2月の間一回も出てなかったのに。2月の苦しみは何だったのか、また振り出しに戻った気持ちでした。受験に対して前向きになれば、すぐに潰される。もうやめたかった

それでももう大人達は受験状の配慮のため動き出していました。結局車椅子で会場に行き、頭痛と倦怠感の中受験。ほんま頭おかしなるで。

 

そのあとは病名もつかないまま僕は「これだけ医者が悩むのだったら難病だろう」そう思ってました。親は「すぐ治る、また健康体になる」しんどい中この台詞は本当に腹が立った。今でも言いやがりますが一度だけ切れました。

 

まーたながくなりました。読んでくれてる人いたら本当に感謝です

 

終わります