(この記事も予約投稿です)
私は死にたい、4年前病気をしてからずっとである。
あるとき人間の安楽死の動画を見てから、もし死の点滴が繋がれていたらスイッチ(あれなんて言うの?)をひねるかどうかを自分に問いかけるようになった。
実は去年1年間は、「ひねらない(今は死なない)」と思ったことが30%ほどあった。
私は最近、「家庭教師ヒットマンリボーン」の漫画(アニメが小学生の頃放送されていてたまに見ていた)を読んでいる。ひ弱な主人公が特殊な銃弾で「死ぬ気」にさせられ、馬鹿力を発揮するところから始まる。
物語がバトル系に切り替わった後(面白いくらいの急展開である)、「死ぬ気の零地点突破」なる技が登場する
私はまさにこれだと思った。昔こんな記事最後の死ぬ気弾、タクさん - SLEのゆくさきも書いたが、そういうことではない。
一度死にたいという気持ち(デストルドー)に振り切った反動で、生きるという欲動(リビドー)を自分の中で最大化して生きているのではないかと。
だからなんだという話だが、「死にたい」は単にその気持ちの表明ではなく、生きる活力にも繋がっている(人もいる)ことをお知りおき願いたい
それで、そんな気持ちが増えつつあるここ最近、私は自分のことで泣けるようになってきた。
これは医学的見地からすれば「精神薬の離脱症状」だとか「再処方が必要」だとか言われることなのかもしれない(だから医学はクソである。今までの症例{過去}を見ながら、患者の{将来}を考える、いわば後ろを見ながら目的地に向かうような愚かさを孕んでいる)
私からすれば、「成長」もしくは「奪還」と呼べる。やっと取り戻した能力。泣くことは心を洗い流すことではないか?
以前も述べたように、「動かない俺」に何の価値もないのである。ぼーっと座っている/寝ているときの俺を誰も必要としていない。
だから忙しなく世話する(Creepy Nutsの聴きすぎ)、働く、話す…
その活動によって初めて自分の存在価値が生まれ、その活動の結果を他人は讃え、成功の果実を欲しがる。
そして「褒められ慣れた」ともカッコつけていた。生きていてくれたら - SLEのゆくさきしかしもっと深掘りすれば「褒められるのではなく慰められたい」という情けない気持ちでいっぱいなのだ。
(この段落の発言は全て無責任から出たものを除く)大丈夫だよ、あなたならできるよ、悪くないよ、考えなくていいよ、そのままでいいよ、居てくれたらいいんだよ、辛いことはしなくていいんだよ、しんどかったら休んでていいよ、悲しい気持ちになったら泣いていいんだよ涙を拭いてあげるから、寝たいときに寝ていいよ…
「「「頑張らなくていいよ」」」
全て、俺が欲しい言葉であり少なくともこの4年俺がかけてもらっていない言葉
嘘でもいい、身近な人がそう言って1日、いや1時間、いや10分でも夢を見させて欲しい
これが「自分が必要とされていること」の正体だと思う。
それを「頼られること」が「必要とされること」の全てだと曲解していた。
受からせてほしい、そのために教えてほしい、話を聞いてほしい、質問に答えてほしい、励ましてほしい…生徒・保護者からの言葉
授業をしてほしい、そのために準備してほしい、受からせてほしい、報告書を書いてほしい、企画を考えてほしい、いついつ出社してほしい、ミーティングのために残ってほしい、残って掃除してほしい…同僚や教室長からの言葉
「頼られる」は往々にして「お前じゃなくていいけど」が含まれる。その瞬間、俺が俺である必要性がなくなる、つまり形而上の俺は死ぬ(あ、ちゃんと死ねていたんだ!笑)
4年間間違えてきたから幸せになれなかった。
でも正解はわからない。どうすればよかったんだ?(ここで、「あなたは悪くないよ」って言ってくれ笑 これは資本主義が悪いのか??)
間違ってたことに気付いただけで一歩前進とかいうバカがいるだろうが、これは悲劇である。なぜなら気付いたせいでいま私は途方に暮れている
気づかない方が幸せなことも、醒めない方が良い夢もある。
いきなり話が変わるが、最近長時間ぐっすり寝られない。
寝つきはするが2時間間隔くらいで目が覚める。一応毎回トイレには行くが尿意で目覚めてるわけでもない。食事ルールを変えてから、つまり空腹で寝るようになってからだと記憶しているが、これも医学的にみれば薬(をやめた)のせいなのか??
なんか最近書き振りが変わってきた。なんでだろう。
わかった、内容が赤裸々になった分、文体でカッコつけようとしてるんだ!
ダッセェこの男、ほんと冗談キツいよ。そら誰も話しかけないわ笑
心込めて